ユビキタス社会での学習の可能性
11月に福井市で開催された「第38回ネットワークフォーラムin 東海・北陸」((財)高度情報映像センター及び全国・文化学習情報提供機関ネットワーク協議会主催)でのパネルディスカッションにパネリストとして参加しました。
その際のサブテキストである『ネットワーク社会における生涯学習』Vol.4に所載した文章を掲載。論文ページにpdfファイルも置いておきます。
__________________________
「情報が遍在する」との意味を持つ「ユビキタス社会」という言葉は、必ずしも十分に周知されたものではない。しかし、情報技術(ICT)の飛躍的進展は、情報を「いつでも、どこでも、だれでも」入手可能なものとしようとしている。
そのような社会のなかで必要とされる学習とは何だろうか。
その問いに答えるため、具体的な事柄を参照しつつ、「ユビキタス社会」の意味を確認し、従来の情報環境との量的、質的な違いを指摘する。
そのうえで、静岡県での事例も引き、情報を編集し、知識を創造するための情報リテラシーの可能性について、地域コミュニティとの関わりを踏まえて提示したいと考えている。
1.ユビキタス社会とは何か
(1) ユビキタスコンピューティングとユビキタスネットワーク
最近「ユビキタス」、「ユビキタスコンピューティング」「ユビキタスネットワーク」などの言葉を新聞紙上などで読むことが多くなったのではないでしょうか?
こうした語は「ICチップ」とか「トレーサビリティ=追跡可能性」という言葉とセットになって、たとえば、食品がどこで採れ、どのような原材料で作られ、どのような流通経路で運ばれ、食卓に上ったのかが明らかになるという記事のなかで使われたりしています。
なんとなく理解できたような気にもなりますが、今ひとつ掴みきれないという「もどかしさ」を感じられることもあるでしょう。
「ユビキタス」とは、もともと、ラテン語を源とする言葉で「(神が)あまねく存在すること」を意味します。ICT=Information & Communication Technology 情報技術に関わらせて、この言葉が用いられたのは、米国ゼロックス社パロ・アルト研究所のMark Weiserによって提唱されたことが最初といわれています。Weiserはユビキタスコンピューティングという考え方について定義を行っています。それを意訳すれば、「パソコンのようなあからさまな形ではなく、あたかも日用品のように、見えないかのように=意識されずに、どこにでもコンピュータが存在する状況」と定義しています。
「どこにでも」ということがユビキタスという言葉と対になって紹介されますが、「見えないかのように」ということも忘れてはいけない点でしょう。
一方で、ユビキタスネットワークという言葉も使われます。ユビキタスコンピューティングが、コンピュータというモノに着目することに対し、ユビキタスネットワークとは「あらゆるものが、どこにおいても、ネットワーク=接続されている状況」を指す、より「接続」という在りように着目していると考えられるでしょう。最近になって使われているユビキタス社会という言葉は、このユビキタスコンピューティングとユビキタスネットワークを重ねて用いていながらも、よりユビキタスネットワークに近づいた形で使われているようです。
この文章においても、両者を参照しつつ、より「ユビキタスネットワークを情報環境としている社会」という意味でユビキタス社会という語を使っていきたいと思います。
(2) ユビキタス社会のキーワード
ユビキタス社会の要素として、「いつでも」「どこでも」「だれでも」の3つが挙げられます。それぞれを、もう少し検討しやすい言葉にしてみましょう。いつでも=常時接続、どこでも=モバイル、だれでも=ユニバーサルデザイン、この言葉にすることで、具体的なものと連結しやすくなります。
まず「いつでも」=常時接続について。
インターネットを利用し、メールやウェブページの閲覧を行っている方は多いと思います。そのネットワーク、回線は何を使われているでしょうか。
しばらく前はダイヤルアップで、インターネットにアクセスするたびにパソコンから電話をかけ、そのつど接続することが主流でした。
そのため、メールが送られていても、接続されていなければ、着信したかどうかが確認できない状況でした。ウェブページの閲覧についても必要最小限の情報だけを手早く入手をすることが必要でしたし、課金についても従量制がほとんどでしたから、長い時間がかかる画像や、ましてや動画などを閲覧、入手することには困難があったはずです。
現在は、ADSLやFTTHというブロードバンド回線が定額で常時利用できることが多くなりました。これにより常にネットワークから情報を入手し、ネットワークを通じて情報を発信するという生活が生まれます。
次に「どこでも」=モバイルです。
モバイルとは移動可能を示す言葉です。移動可能なインターネット端末で圧倒的な量になっているものに携帯電話があります。現在、インターネットに接続可能な携帯電話は7193万台に上り(2004年8月末現在)、ほとんど一人一台に近づいています。
また、携帯電話に電源が入っている限り基地局との通信は行われ、例えばメールがプロバイダーに届けば、即座にそれを知らせたり、ある一定の位置に入れば自動的に情報の受信や発信が行われる、ほぼ常時接続に近い環境を持っています。最近では料金も定額制が導入され、固定インターネットで起きた変化を再現しようとしています。
しかも、携帯電話は単に通話及び文字通信に限定されない、動画を含むカメラ機能、衛星通信によるGPSや基地局を利用した位置情報の活用も可能となっています。その他、Felicaによる決済機能やテレビやラジオの視聴さえ可能になりました。
既に携帯電話は単なる電話+付加機能というモノから、複合型情報端末であるケータイへと進化していると言うことも可能でしょう。
「どこでも」には、実はモバイル、移動可能というものとは別の切り口があります。それは「そこにある」ということです。モバイルが「そこにいく」という形で「どこでも」を実現するのに対し、「そこにある」は生活を形作る多様なモノに<ネットワークの端>が埋め込まれている姿、より具体的な現在の可能性としては無線ICタグが何にでも付着され、情報の受発信を行っている状況です。
現在、いろいろなメディアで報道される「ユビキタス」とは、この点を大きく取り上げたものがほとんどかと思います。
しかし、そうした無線ICタグが満ちあふれている社会だけをユビキタス社会として考えるのでは、ユビキタス社会における暮らしや学習は極めて痩せたものになってしまうでしょう。
この文章では、より幅広くユビキタス社会を捉えています。
実は、この「そこにある」という状況さえも、ケータイと連動することで簡便な形で実現されています。正方形のなかに黒い点が散っているような二次元バーコードがそれです。
二次元バーコードにはテキスト文書やインターネットの番地であるURLやメールアドレスなどの情報を埋め込むことができます。URLからはさらに豊富な情報への誘導が可能でしょう。ケータイでのカメラ撮影というアクションを必要とはしますが、「そこにある」さまざまなものに情報を埋め込むことが可能であるという意味でユビキタス社会にとって重要な意味を持っていると考えます。
もうひとつのユビキタス社会の要素として「だれでも」=ユニバーサルデザインがあります。
この点は、情報技術とあわせ多様な意味でのインターフェースに関わります。年齢や障害の有無、性別その他それぞれの人間が持っている個性、属性に関わらず、情報へのアクセスを保障することが重要です。ユニバーサルデザインについては「すべてに等しく」と画一的に考えるのではなく、「身の回りの認識を触覚、聴覚、視覚、その他どんな方法で行おうと、すべての個人に情報が届くようにするためのデザイン」(1)と多様性のもとで捉えることが、積極的な対応を生むと考えます。
このことはユビキタス社会においても「いつでも」「どこでも」「だれでも」を画一性の視点で考えるのではなく、手段の多様性を重視することの必要性を示唆しています。
(3) 何が異なるのか
では、ユビキタス社会とは、いわば「前ユビキタス社会」に比べ、何が異なるのでしょう。
いくつかの視点があり得ますが、ここでは量的には、自由の拡大、知識の重要性の増大を、質的な違いとしては、情報を編集する力の個別化を挙げたいと思います。
ユビキタス社会においては、情報がいつでも、どこでも、だれでも利用できるようになります。それによって、情報不足によりやむを得ずステレオタイプに頼るということのない、適切な判断や行動に結びつく可能性を持っています。
言い方を換えるなら、それは自由な領域の拡大であり、それと裏腹な責任の増大にもなります。
ケータイによって、いつでもどこでも誰とでも出会うことが可能になる社会は、新しい知己を得て、自らの能力を発揮できる場を作り出すことにもつながる一方で、無責任な出逢いにより犯罪を誘うことさえあります。
新しく得た自由をどのように責任を持って使うのか、常に自由の範囲が拡大したときに問われる課題です。
情報通信においても、電信が発明され、電話が生まれ、ラジオが、テレビが利用できるようになったときに、放恣な利用を理由に否定的な意見が生まれました。同じことが今、問われているようにも思えます。
それは精神論にとどまらず、新たなシステムの形成を促してもいます。例えばSNS=ソーシャルネットワークサービスと呼ばれる、インターネットを利用したサービスがあります。SNSは会員の紹介がなければ利用できないものがほとんどです。会員となった利用者は、他の会員がどのような友人関係をもっているのか、日記帳や情報紹介手段としの機能を持つblog(ブログ)と呼ばれるアプリケーションをどのように利用し、どのような人となりであり、情報資源を持っているかを確認しつつ、コンタクトをとることが可能になります。そうしたサービスをどのように使うか、自由の問題でもあり責任の問題でもあるでしょう。
次に、ユビキタス社会がもたらす知識の重要性について述べます。
この点は情報の受信・利用と発信の両方に関わります。
情報が適所、適時に利用「できる」ということは、あくまで可能性を示した言葉です。皆が限定された情報しか得られない環境にあれば、知識の格差も限られますし、知識の入手が限定されていることを前提とした社会が当然となります。
しかし、情報が適所、適時に利用「できる」のであれば、適時、適所で入手し活用する者と、従来の知識だけで判断しようとする者の成果の差が大きくなります。また、情報が入手可能であることを前提として社会が構築されていけば、知識の獲得は必然となり、重要性が増すことは明らかでしょう。
次に情報の発信について。情報環境を利用できる自由が増えた社会では、個人による情報発信の可能性も大きくなります。具体的にもウェブサイトを個人で作っている人も少なくありませんし、先に述べたblogというものは、より簡易なウェブサイト構築を可能にしました。あるいは、メールの送信もまた情報発信の卑近な例でしょう。
情報は送信されているところに集まります。送信できるだけの内容を持つには、生活経験のなかで流れていくものを、いったん堰き止める作業が必要です。そのためには、知識や感性を研いでいく意味があると考えます。
さて、重要性を増すのは知識の量だけなのでしょうか?、そもそも知識とは何なのでしょう。
いつでも、どこでも、誰でもがネットワークに接続された環境とは、大量の情報に曝されている環境と言うことも可能です。
そうしたなかで、要求されるものに「編集能力」があります。従来、情報とは新聞や書籍などに見られるように、あらかじめ編集され、扱いやすいように提供されてきました。一定の編集方針があり、その編集方針への評価はありながらも、情報の受け手は整えられた情報を利用してきたとも考えられます。
ここで興味深い事例を示します。googleという、ウェブページの情報を検索するサイトを御存知だと思います。このgoogleが、今年、2004年9月にはじめたサービスにgoogleニュースというものがあります。既に英語版などでは提供されていたサービスですが、日本でもベータ版という扱いながら、相当本格的な内容でのサービスになっています。これは、新聞社や通信社のウェブページ、あるいは独立系ニュースページに掲載されているニュース記事を、googleの検索エンジンが、語句の共通性に着目して一覧できるようにするというサービスです。
例えば、2004年9月26日に「台風21号、宮古島沖を西へ」という日本経済新聞からのニュースがあり、関連記事という文字をクリックすると、朝日新聞、宮城県の県紙である河北新報、東京ローカルの東京新聞、放送局のTBS、鹿児島の南日本新聞、四国新聞、日刊スポーツ、岩手日報、RKB毎日放送など98件もの記事を閲覧することが可能になります。
これらは、一定の編集方針によって並べられたのではなく、単に語句の共通性を材料に羅列されたものです。このニュースを利用するときに、いくつかの記事を比べ、そこでの情報を取捨選択し、それぞれの情報に別の情報源からの知識を付加し、それぞれの情報の関係を掴み、自分にとって意味のある知識を構築していく作業が有効になります。台風のニュースであれば、編集の差異により、それほどの差はないかもしれませんが、日本と北朝鮮の協議についてのニュースであれば、外国通信社の記事なども参照した多面的な編集が必要になるでしょう。
また、情報発信に際しても、興味深い情報を記載した諸種のウェブサイトをつきあわせながら、自らの意見や思いを語ることが容易なblogは、情報編集のための器だといってもいいでしょう。blogの利用が急速に広がり、それがケータイからも入力、参照できる状況は、まさに情報化社会、その先端としてのユビキタス社会において、編集能力が極めて重要になっていることを示しています。
知識も、単に情報を並列したまま丸のみすることでは、育ちません。野中郁次郎は暗黙知、形式知という言葉で知られています(2)。
しかし、その区分自体が重要なのではありません。
個別にある暗黙知がフェース・トゥ・フェースなどを通じて共有化され、新たな暗黙知を生む共同化。暗黙知が言語やグループでの討議を通じて表される表出化。形式知の編集や移転によって新しい組み合わせによる形式知をつくりだす結合化、形式知を自己の内部に暗黙知として腑に落ちさせる内面化。こうしたプロセスを明らかにしたことに重要な収穫があります。
いつでも、どこでも、誰でもが、情報を通じ、さらにそれをきっかけに現実の場で出会う可能性を大きく高めたユビキタス社会において、共同化、表出化、結合化、それらの結実としての内面化という、知識創造のプロセスが加速されることは十分に肯えます。
都市は人を自由にしました。ユビキタス社会は人を自由に、かつ知識の創造、共有に向け踏み出す存在としたと言えるでしょう。
2. ユビキタス社会の暮らしと学習
前の節では、ユビキタス社会の肯定的な側面を中心に述べました。
しかし、ユビキタス社会は薔薇色の世界でないことはもちろんです。既に述べたことを逆から見れば、知識創造に十分に取り組まない組織や個人にとって厳しい状況が訪れる可能性は小さくありません。
また、無線ICタグが遍く存在する社会をユビキタス社会とすれば、どこからでも情報が入手できるという利点とともに、身に着けた無線ICタグを基点に、どこからでも監視される社会になるということもあり得ます。
P.K.ディック原作、S.スピルバーグが監督した『マイノリティ・レポート』という映画がしばらく前に上映されました。そのなかで、トム・クルーズ扮する主人公の網膜が赤外線のようなもので無線認証され、主人公の属性に応じた広告が目の前のディスプレイに次々と映されていくというシーンがあったはずです。便利ではありますが、ある意味、不気味とも感じられます。
無線ICタグを身に着けたまま街を歩くことになれば、近似したことは可能になります。
ユビキタス社会は、人が、操作される対象ではなく、操作する主体として生きるためには、どのようなシステムとどのような学習が必要かが問われている社会でもあると考えます。
その意味での情報リテラシーに関わる学習が重要になるでしょう。
2001年を中心にIT講習会が全国で行われました。ワードプロセッサや表計算など、パソコンのアプリケーションの使い方、インターネットへの接続方法が多くの内容でした。もちろん、基礎的なスキルとして、そうしたことは必要でしょう。
また、ユビキタス社会での学習という問題設定においては、遠隔地であってもインターネットなどネットワークを利用して学ぶことが可能な「eラーニング」が取り上げられます。最近ではケータイの複合端末化を反映してケータイeラーニングも行われ、ますますユビキタス社会の果実を活かした学びが可能になっています。
しかし、それだけでは情報を操作する主体となる学習にはならないのではないかとも考えます。では、どのような学習が必要とされるのか。
答えを急ぐ前に、ユビキタス社会が接近を可能とした思考を確認したいと思います。それは公共を経営するという考え方です。従来、公共という言葉は官、議会・行政と重なる言葉でした。しかし、いつでも、どこでも、誰でも、必要な情報を入手し活用できる社会は、行政の情報優位性を当然のものとはしなくなりました。
またNPOなどの勃興は公共に関わる専門性の別の担い手を生み、それらがまた、情報化の先端であるユビキタス社会で知識を創造しつつ、力を強めています。
こうしたことにより、市民が直接に、あるいはNPOや企業の社会貢献を通じて公共の経営に実質的に関わることが可能となりはじめたと考えます。
そうしたなかで、人が操作される対象にとどまることなく、操作する主体ともなる学習とは何か。
一つの答が藤沢市にあります。電子市民会議室を開設し、活用するための講習であり、学習です。藤沢市の電子市民会議室は、市民が多様な形で地域を創っていくなかの一つの手段として、大事な役割を持っています。その電子会議室が適切に運営されている理由のひとつが、ここにあると思います。公共を経営するための積極的なアプローチを導く学習。
ユビキタス社会での情報リテラシーには、そうした意味も込められると考えます。
3. 地域コミュニティに向けて
最後に静岡県での事例を紹介することで、理解の助けになることを期待します。
静岡県では、2003年度から「ユビキタス・ネットワーク社会システム研究会」を立ち上げ、無線ICタグを地域のエンパワメントにどのように活用できるのかという視点に主にした研究を行っています。
ここでは、そのなかで、研究会において検討された、「地域生活コミュニティシステム」の考え方の一部を示します。
街のなかや公共施設、その他さまざまな場所に「情報ポスト」を設置します。情報ポストには、あらかじめ地域の状況や、災害時の対応方法などを埋め込んだサーバにネットワークした、アクティブな情報発信タグを設置します。
情報ポストは無線ICタグを所持した者が接近するとセンサーにより感知し、ケータイなどの情報端末に先の地域コミュニティに関わる情報を送信します。あわせて、ここが大切なところですが、無線ICタグ所持者から情報発信を促すようなメッセージと発信用フォーマットもケータイなどに送り込みます。情報発信のインセンティブのために、何らかの地域通貨などとの連動も考えていいかもしれません。
これらの情報や発信勧誘を受けて、無線ICタグ所持者が自らの情報を、情報ポストに残していきます。残されるものは、受信した情報への評価や新たなお知らせ、コミュニティに関わる意見などが考えられます。次に情報ポストに近づいた無線ICタグ所持者は、既に残された情報を得ることもできます。重層化した評価は、情報への信頼性の判断にも活用可能でしょう。
地域への来訪者が無線ICタグを着用することで、コミュニティは外に開かれ、ネットワークされていきます。外部からの新しい視点の情報が得られることもあるでしょう、あるいは、来訪者にとって支援となる情報を得ることも期待できます。
この地域コミュニティシステムは、まだ構想の段階ですが、実験に向けた動きもはじまっているようです。
もう一つの事例あるいは構想は、コミュニティ・セルという考え方です。コミュニティ・セルとは、地域や職場、学校などを基礎とした5人~10人程度のグループを指します。このコミュニティ・セルが、blogやウェブページでの地理情報システムであるWebGIS、電子掲示板、先に紹介したSNSなどのICTに関わるツールを利用し、環境や防災、地域の魅力、防犯など、それぞれのミッションに沿って、地域の発見を行っていきます。
このとき、重要な道具として、いつでも、どこでも活用可能なケータイが利用されます。
そして、発見された地域情報は単に集積されるだけではなく、共有され、さらに具体的な地域政策の種となります。議会・行政主導ではない、市民が必要な政策を自ら提案する、そうしたリアルな場へとつなげていくことが期待されています。
このコミュニティ・セルを活用した実験事業も既に準備が整い、具体的な活動が目前にあります。
以上、二つの事例を示しました。
静岡県内の事例に見られるような、ユビキタス社会を前提とした、種々の動きが、さまざまな場所で動きだすことが考えられます。
そうしたとき、地域コミュニティに関わる情報を編集し、知識の創造につなげること。コミュニティという公共を、安心・安全・快適なものとするために必要な情報リテラシーである、受信、発信、編集能力を身に着けること。
今後、そうした学習が求められる時が来る、あるいは既に来ているのだろうと考えています。
(1)R.ヤコブソン『情報デザイン原論』東京電機大学 2004
(2)例えば、野中郁次郎、紺野登『知識経営のすすめ』ちくま新書1999
河井孝仁(かわい・たかよし)
(財)静岡総合研究機構主席研究員(静岡県より派遣)。
名古屋大学法学部卒業、静岡大学人文社会科学研究科修了、現在、名古屋大学大学院情報科学研究科博士後期課程在学。特定非営利活動法人アクション・シニア・タンク理事、同パートナーシップ・サポートセンター企画運営委員。静岡大学客員教授。論文に「電子自治体における「プラットフォーム」概念について-「創発型地域自治」の制度デザイン-」他、著書に『NPOと企業 協働へのチャレンジ』(共著)同文舘出版。
The comments to this entry are closed.

Comments